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山本七平著『渋沢栄一 日本の経営哲学を確立した男』読了メモ(^_^)

紙幣刷新で一万円札は渋沢栄一に。そんなわけで読んでみました!

「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一。イメージから雲の上の人物であり、順風満帆のエリートだという印象を抱いているかもしれない。

日本文化と日本社会を研究してきた著者、山本七平の 視点から、渋沢栄一の人生が語られるがその人生は挫折と失敗の連続であった。

【91年間の人生は、挫折の連続】
・幕末には 高崎城の乗っ取りを企むが、第三者の助言によってこれを断念する。
・江戸で知己になった家老の口利きで徳川慶喜に仕えるが、この家老が暗殺されてしまう。
・留学するつもりでフランスに行けば、幕府が瓦解してしまい、半ば犯罪人のような扱いで帰国することになる。
・日本最初の会社を設立するが、ちょうどそのタイミングで新政府にスカウトされて、会社を放り出さざるを得なくなる。

このように、何かをしようとすると、必ずどこかで挫折が待ち構えているのだ。

初めてパリに行った彼が何に興味を引かれたのか、同年代である福沢諭吉との共通点はどんなところにあるかなどが、愛情を込めて紹介されている。

【柔軟な発想の持ち主】
栄一は、合理的なものの考え方をした。自分が持っている情報の中で考えを一つにまとめていたとしても、新たな情報が入ったら、その考えをまったく変えてしまう。考えを変えることに対して、抵抗がなかった。

例として、高崎城乗っ取り計画の中止が挙げられる。栄一は、血洗島村というところにいたときに、この計画を企てた。しかし、当時最も先進的な地であった京都から戻ってきた尾高長七郎から、乗っ取りをやめるよう進言される。その結果、計画中止を決断したのである。

パリの証券取引所を訪れたときも、京都や大坂で学び、金融知識を持っていた彼は、パリで銀行業務を見ても、それが理解できず驚くということがなかった。むしろ、銀行制度を調べ、吸収するよう努めた。新たな情報を貪欲に手に入れて、最新の情報に基づいて物事を判断する点は、彼の特徴といえる。

【偏見を持たない】
栄一は、社会とは常に変化していくものだという意識を持っていた。過去にこだわらず、社会に対応していくことをよしとしていた。

大正元年、「友愛会」が創立され、過激な労働運動である「大正労働運動」が起こる。そのとき栄一は、友愛会の創立者である鈴木文治と親しくし、相談相手になっていただけでなく、労働者側に同調した主張をしていた。さらに大正14、15年頃には、長野県の製糸工場で起こった女工のストライキに対して援助している。資本家であった彼にしては、不思議な態度と言える。

彼の偏見のない態度は、労働運動にとどまらない。フランスに行ったときに書いた日記『航西日記』には、バターを塗ったパンについて「味(あじわい)甚(はなはだ)美なり」と記されている。当時の日本人は、バターのにおいを非常に嫌ったらしいが、栄一はまったくそんなふうに感じていない。コーヒーについても、彼は「すこぶる胸中を爽(すこやか)にす」と評している。

【頑ななところも】
栄一は、柔軟性を持っていたが、同時に、「徳川時代人」としての考え方を頑として変えない面もあった。以下、家族と会社に対する態度にみられる姿勢。

栄一の家族に対しての態度は、徳川時代においては、親権はあるが、家長権というものは存在しない。本家、分家とは名前だけであって、それぞれ独立した核家族であり、経済的水準が高ければどんどん分家していくものであった。さらに、隠居して経営権を相続人に渡すと、相続人には隠居を扶養する義務が生じる。もし相続人が隠居を扶養しなければ、相続を剥奪することができた。実際に栄一は、当然のように親権を行使し、勘当していた。

徳川時代においては、血縁がない人たちであっても、利害さえ一致すれば、一揆という集団が結成された。
栄一がつくった日本最初の会社「商法会所」は、一揆と同じような設立方法であった。実際に「商法会所」の定款を見ると、確かに彼がヨーロッパで学んだ知識も活かされているものの、一揆のような日本の伝統的な方法も取り入れている。栄一は徳川時代を生きた人間としての考え方も残しており、変える必要がないと考えたものに関しては、これまでの方法を貫くという面もあった。

【論語を基準に人を見る】
栄一は、晩年、教育事業や社会事業に尽力した。一橋大学の前身である東京高商をつくり、二松学舎を援助して、漢学的な伝統を日本に残そうとした。

また『論語講義』を著しており、日本の伝統を守ると同時に、西欧的な教育も重要であると考えていた。

彼は人を見るとき、『論語』を基準にして評価していた。人材の採用においても同様である。なぜなら、日本における組織の上下秩序はヨーロッパ的ではなく、儒教的だからだ。ヨーロッパの組織と日本の組織の違いを、彼ははっきり認識していた。

【論語と日本人】
『論語』は、日本人に大きな影響を与えた。『論語』は、応神天皇の15年に日本にやってきたと『古事記』と『日本書紀』にも記されている。

『論語』は、当時の中国ではさほど珍重されていたり、高く評価されていたりしたものではなかった。むしろ、本当の聖典とされていたのは「五経」(『詩』『書』『礼』『易』『春秋』)である。『論語』はせいぜい入門書の位置づけだった。おそらく、野蛮人である日本人にはこの本がちょうどよいと判断されたのだと解釈できる。

『論語』が日本人に浸透しはじめた時期については、諸説ある。当初は朝廷内で講義をされていただけであって、あまり浸透しなかった。
実際に浸透しだしたのは、『正平版論語集解』という、注解付論語が正平19年(1364年)にできたころである。この時期に浸透しはじめた理由は、この時代が乱世だったからだと想像される。孔子の時代もまた乱世であり、下剋上の時代だったという共通点があった。

孔子の発想の基本は、いかにして秩序を立てるかということである。日本人が戦乱にあきあきし、なんとか秩序ができないかと感じていた時代に、『論語』は浸透しはじめたのだといえる。

日進月歩の時代にあって、歴史ある思想から学ぶものは多い。先人の知恵を吸収したい。

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